第5話|ギリギリ生活から借金完済へ。生活水準を上げずに選んだ「親への仕送り」

新しく入社した会社は、自宅からそれほど遠くない場所にある、小さな営業所でした。
従業員は20人ほどで、いかにも「町の運送会社」という雰囲気です。

今回の募集では、私も含めて3人が採用されました。
私と同い年くらいの男性が一人、30代後半くらいの男性が一人。
同じタイミングで入社したこの3人が、新人メンバーというわけです。

こうして、自宅からそう遠くない小さな営業所で、私の新しい仕事がスタートしました。


ほぼ全員年上の職場で

当時の私は20代半ばでしたが、営業所の従業員は、ほとんどが一回り以上年上の方ばかり。
逆に、私のような年齢の若いドライバーは珍しかったようです。

とはいえ、同時入社の2人も含めて、皆さん気さくに接してくれて、
最初の印象は「落ち着いた大人が多い職場」でした。

勤務体系は「日勤」と「夜勤」の2交代制で、どちらかの時間帯に固定で入る仕組みです。
私は日勤帯で、勤務時間は朝6時〜夕方17時ごろ。月の休みはだいたい7日ほどでした。


コンビニの固定ルート配送という仕事

仕事内容は、コンビニ店舗への「固定ルート配送」です。

朝、営業所に出勤して3トン車に乗り込み、まずは商品を積むために物流センターへ向かいます。
センターで商品を積み込んだら、それぞれ担当のルートへ出発。
1回の配送でまわる店舗は、だいたい8件前後でした。

昼休憩を挟んで、午後も同じルートをもう1回まわります。
走るルートは毎回同じなので、何日か走れば自然と道を覚えていきました。

私が運んでいたのは、弁当やおにぎり、チルド麺、サンドイッチ、惣菜、パンなどの「米飯・チルド」商品です。
トラックの荷室は前後で2つに仕切られていて、それぞれ異なる温度で管理されており、商品ごとに適した状態で運べるようになっていました。

積み込み・荷降ろしはすべて手作業ですが、極端に重たい荷物は少なく、長距離の高速運転もありません。
トラックドライバーの仕事の中では、まだ体への負担が少ないほうだと感じていました。


実はコンビニのトラックにもいろんな種類がある

コンビニの物流センターは、扱う商品ごとに分かれています。
私が通っていたのは「チルド・米飯」専門のセンターですが、ほかにも

  • 冷凍食品を扱うセンター
  • カップ麺やお菓子
  • 酒類や日用品・雑貨

などを扱うセンターがあります。

そのため、店舗で納品しているときに、別のセンターから来たトラックと鉢合わせすることもしょっちゅうでした。
同じコンビニのロゴが入ったトラックが2台並んで止まっていても、
「実は中身も、出発したセンターもまったく違うトラック同士」
ということも多いんです。


5つのコースをローテーションで回す

私が通っていた物流センターには、うちの会社以外にも複数の運送会社が入っていて、会社ごとに受け持っているコースの数もバラバラでした。

その中で、私の会社が担当していたコースは全部で5つ。
基本的には「1日1人1コース」で、5つのコースをローテーションで回していきます。

今日はAコース、翌日はBコース……というように、日によって担当ルートが入れ替わるので、
最初のうちは、道を覚えるだけでも必死でした。


入社直後の運転練習と「番重」の仕組み

入社初日は、先輩社員が運転するトラックの助手席に乗り、マンツーマンで仕事の流れを教わりました。

そして入社2日目には、もう運転席に座らされていました。しかもミッション車です。

今でこそATの3トン車も珍しくありませんが、当時はマニュアルが当たり前。
教習所以来ミッションなんて触っていなかった私は、

「クラッチってどっち側だっけ?」

というレベルからのスタートでした。

当時は普通免許で4トントラックまで乗れたので、免許証だけ見ればそれなりに“立派”なんですが、中身はほぼペーパードライバー。
乗用車とは違って車体が大きいので、狭い田舎道を走るときは、道路スレスレまで出ている家の軒や太い木の枝、標識や看板など、とにかく気を遣います。

商品は「番重(ばんじゅう)」と呼ばれる、底が浅く平たいプラスチック製の運搬容器に入れて運びます。
番重の中身(おにぎり・弁当・惣菜・パンなど)は、物流センターのスタッフが店舗ごとに仕分けしてくれているので、ドライバーが一つひとつ中身を把握する必要はありません。

ドライバーが管理するのは、あくまで「番重の枚数」です。
どのお店に番重を何枚持っていくか――そこだけをしっかり押さえておけば大丈夫、という仕組みになっていました。

3ヶ月ほどの教育期間を終えると、最後に物流センターの管理者が横乗りして、実際にコースを一周します。
その「最終見極め」でOKが出て、ようやく一人でコースを任されるようになる、という流れでした。

だいたいの運送会社は、教育期間は長くても1ヶ月ほどが一般的ですが、
大手コンビニの看板を背負ったトラックを運転するからか、このあたりはかなりしっかりしていたと思います。


本当に危ないのは「慣れてきた頃」

正直なところ、本当に危なかったのは、一人立ちした直後ではなく、
一人立ちして仕事の流れに慣れてきた頃からです。

「もうだいたい分かってきたな」

と思い始めたあたりから、
小さな「まあ大丈夫だろう」が増えていき、そのぶんミスも顔を出すようになりました。

荷台から手押し台車に商品を載せ替えるときにやらかしたこともあります。
商品を抱えたまま足元を踏み外してしまい、そのまま商品ごと台車から転落。
中身は無事でもパッケージが凹んでしまい、売り物にならなくなってしまったこともありました。

荷台に積み上げた番重が、カーブで倒れてしまったこともあります。
荷台スペースに余裕がある状態で、同じ場所に番重を高く積みすぎると、不安定になってしまうんです。
それ以来、できるだけ高さが均等になるように、平たく積み直すように気をつけるようになりました。

そして、一番多かったのが「テレコ」と呼ばれるミスです。

配達先Aのお店の荷物を、間違えて配達先Bのお店に届けてしまうパターンで、
これを業界では「テレコになった」なんて言ったりします。

もちろん、教わった通りに確認作業をしていれば、防げるはずのミスです。
それでも、少し慣れてきた頃が一番、確認をおろそかにしがちでした。

そして、今でも忘れられないのが「鍵」のミスです。

トラックの鍵は2本あって、1本はハンドル横の鍵穴に、もう1本は腰にくくり付けていました。
あるとき、両方ともトラックの車内に置いたまま、内側からロックをかけて外に出てしまったことがありました。

用事を済ませてトラックに戻り、いつものクセで腰に手をやると……あるはずの鍵がない。
その瞬間、頭の中が一気に真っ白になりました。

「え、ちょっと待って。じゃあ、鍵はどこに……?」

冷や汗をかきながら車内を覗き込むと、ハンドルのところにぶら下がっている鍵。
そして、もう1本も運転席の上にポンと置かれているのが見えたときの、あの絶望感はなかなかのものでした。

幸い、トラックをぶつけるような大きな交通事故はありませんでした。
ただ、商品を落として破損させてしまったり、配送先を取り違える「テレコ」、ちょっとした凡ミスは、
一人立ちして仕事に慣れてきた頃によくやらかしていました。


ミスをすると、ルールが増えていく

ミスをすると、そのたびに始末書を書き、
「同じことを二度と起こさないためにはどうするか?」
を皆で話し合い、対応策を決めて共有しなければなりません。

たとえば、実際にあったケースでは、店舗の駐車場でバックしたときに、看板や壁にトラックを接触させてしまったことがありました。
その事故をきっかけに決まった新しいルールは、

  • 店舗の駐車場で後退する前に、必ず一度は車から降りる
  • 「ここまで下がる」という位置にポールを置く
  • そのポールを目印にしてバックする

というものです。
看板や壁が見えていなくても、この手順を毎回やらなければいけません。

こうした「再発防止のルール」は、車両事故やテレコ、ミスが起こるたびにどんどん増えていきます。
その結果、作業時間や手順は少しずつ重くなり、現場の負担もじわじわ増えていきました。

とはいえ、こうした状況は、きっとうちの会社に限った話ではなく、どこの運送会社でも少なからずあると思います。
それでも、私がこの職場で長く続けられた一番の理由は、「職場の雰囲気がとても良かったこと」でした。


先輩の存在が支えになっていた

小規模な営業所ならではの一体感があって、困っている人がいれば、誰かがすぐ声をかけてくれるような、まとまりのある職場だったんです。

その中でも、私にマンツーマンで仕事を教えてくれた先輩は、一回り近く年上の方でした。
仕事中は厳しくも丁寧に指導してくれて、仕事が終われば公私ともによく一緒に過ごしました。

その先輩と出会えたことが、私がこの会社で「長く、そしてできるだけ楽しく」仕事を続けられた大きな要因だったと思います。


理不尽なクレームと、それを笑い飛ばしてくれる先輩

この仕事をしていると、たまにコンビニの店長さんやお客さんから、理不尽なクレームをつけられることがあります。
こちらはあくまで「荷物を運んでくる立場」なので、どうしても立場的には弱い側です。

たとえ自分に非がないと感じる場面でも、
事を荒立てたくないので、ひたすら頭を下げて謝るしかない――。
そんなことも、正直少なくありませんでした。

そんなふうに落ち込む出来事があっても、
あの先輩は、いつも冗談を交えながら笑わせてくれて、
気づけば「まあ、しゃあないな」と前向きな気持ちに戻してくれました。


きっかけは「ギリギリ生活から抜け出したい」

もともとこの仕事を始めた一番の理由は、ギリギリの生活から抜け出したかったからです。
給料は毎月きちんと入ってくるので、以前のように「今月どうやって乗り切ろう……」と不安になることは少なくなっていきました。

生活は少しずつまともになり、
同時に、抱えていた借金も、毎月コツコツと繰り上げ返済を続けた結果、
大きなトラブルもなく、なんとか無事に完済することができました。


借金完済後に変わったこと

不思議なことに、借金を返し終えたあと、将来への不安みたいなものはあまりありませんでした。
それよりもむしろ、

「今までが極貧すぎたぶん、これくらいで十分だな」

と、どこかで「足るを知る」感覚のほうが強かったように思います。

お金の面で追い詰められていた頃は、いつも心に余裕がなくて、
生活費や返済の計算で頭がいっぱいの、まさに切羽詰まった状態でした。

仕事中もどこか上の空で、
「この先どうしよう」と余計なことばかり考えてしまい、
目の前の作業にしっかり向き合えていなかった気がします。

それが、毎月の支払いの心配がなくなったことで、
ようやく気持ちにゆとりが生まれました。

お金のことだけで頭がいっぱい、という状態から少し抜け出して、
仕事のことや両親のこと、自分のこれからのことを、
落ち着いて考えられるようになっていきました。

「お金が増えたから幸せになった」というよりも、
「心がギスギスしなくなって、少しだけ満たされた」
という感覚に近かったと思います。

借金を完済しても、生活水準を無理に上げることはしませんでした。
外食や贅沢を増やすのではなく、今まで通りの質素な暮らしを続けながら、
逆に、給料に少し余裕が出たぶんを両親への仕送りに回すようになりました。

というのも、私はこれまで、かなり親不孝なこともしてきました。
専門学校に通わせてもらいながら、学費を出してもらっている身で勝手に辞めてしまったり、
お世話になっているのに、それを裏切るような選択ばかりしてきた気がします。

だからこそ、どこかでずっと「後ろめたさ」のような感情が残っていて、
仕送りをすることが、自分なりの“少しでも返したい”という気持ちの表れだったのかもしれません。


第5話のまとめ

こうして、コンビニへの固定ルート配送の仕事をしながら、
コツコツと借金を返し、ようやく極貧生活から抜け出すことができました。

毎日早朝からトラックに乗り、
ミスに落ち込みながらも、先輩や職場の雰囲気に支えられて続けてきたこの仕事は、
当時の僕にとって、「生活を立て直し、親に少しでも返していくための場所」でもありました。


▶ 次回予告|第6話

借金も返し終わり、仕事も生活も少しずつ落ち着いてきた頃。
そのあと、会社の体制や自分の働き方が、少しずつ変わっていきます。

第6話では、職場で起きた変化と、そこから僕が会社を辞めることを考え始めるまでの流れを書いていきます。

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